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運命の出会い 木庭スカウトと衣笠祥雄
1965年、広島カープの歴史を変える一人の若者が入団した。衣笠祥雄。京都の平安高校でスラッガーとして鳴らした18歳の若者である。
実は、この運命的な出会いには、カープの名物スカウトとして知られる木庭教の慧眼が光っていた。
当時はまだ、野球界にドラフト制度は導入されていなかった。木庭スカウトは、平安高校の一選手に目を留めた。通常の高校生より重い900グラムを超えるバットを、しなやかに、そして力強く振り抜く姿。
その選手こそが衣笠祥雄だった。木庭スカウトは、この若者の中に、未来のスターを見出したのである。
衣笠自身も、広島カープを選んだ理由を後年、明確に語っている。「京都から広島まで、当時は乗り換えなしで行けた。
親元を離れて野球に打ち込むには、ちょうどいい距離だと思った」という地理的な理由。そして何より、「若手が伸び伸びとやれる環境があった」というチーム事情も、大きな決め手となった。
苦難の日々から不動の主力へ
入団当初、衣笠は内野手として迎えられた。一塁手としての守備を期待されての入団であり、これは後の「鉄人」としての活躍を考えると、運命的な配置だったと言える。しかし、プロの壁は厚かった。一軍の選手たちの実力に圧倒され、自信を失いかけることもあった。
そんな中、白石勝巳監督の存在は大きかった。「お前には必ず花が咲く」。その言葉を胸に、衣笠は黙々と練習に打ち込んだ。
毎日のように特守を申し出て、グラウンドに残る。他の選手が引き上げた後も、素振りを続ける。その姿は、後年「鉄人」と呼ばれることになる衣笠の原点となった。
黄金期への架け橋
1968年、衣笠は初めて規定打席に到達。打率.276、21本塁打を放ち、中堅打者としての地位を確立する。そして1970年10月19日、彼の野球人生を決定づける出来事が始まる。この日から始まった連続試合出場は後に世界記録となり、1987年10月22日の大洋戦の2215試合まで続くことになる。
1975年、カープは前年入団打撃コーチのジョールーツを監督へ昇格、新たな時代へと突入する。ルーツ監督は、アメリカンスタイルの積極的な野球を導入。この時期、衣笠は更なる進化を遂げていく。
この頃、若き天才・山本浩二が台頭してきた。衣笠は、この後輩との間に深い信頼関係を築き上げる。二人で打撃練習を重ね、時には食事を共にしながら野球談義に花を咲かせた。この「兄貴分」としての衣笠の存在は、山本の成長に大きな影響を与えたと言われている。
悲願達成~1975年10月15日
1975年10月15日、後楽園球場に秋の陽が差し込んでいた。この日、カープはついに球団創設26年目での初優勝まであと一歩のところまで来ていた。マジックナンバーは「1」、残り2試合。その最初の一戦が、宿敵・巨人との直接対決となった。
スターティングメンバーが発表された。1番二塁手・大下剛史、2番遊撃手・三村敏之、3番一塁手・ホプキンス、4番中堅手・山本浩二、5番三塁手・衣笠祥雄。6番から8番にはシェーン、水谷実雄、道原博幸が並び、9番には20勝へ王手の完全試合男・外木場義郎の名が記された。対する巨人は、新浦寿夫が先発マウンドに立った。
投手戦の行方
午後2時、試合開始のサイレンが鳴り響いた。序盤から両チームの投手が踏ん張る展開。2回には衣笠が四球で出塁し、水谷の中前打で二死一二塁のチャンスを作るも、得点には至らない。4回には山本が相手の失策で二塁に到達するも、続く衣笠は三ゴロに倒れ、またしても得点を挙げることはできなかった。
スタンドでは、カープファンの声が次第に大きくなっていく。「カープ!カープ!」というコールが、秋の空に響き渡った。
運命の一打
0-0で迎えた5回表、ついに試合の均衡が破れる。道原の内野安打で走者を得ると、大下剛史が左翼フェンス直撃の適時二塁打を放ち、待望の先制点。スタンドは総立ちとなった。
6回には、衣笠が左前打で出塁すると、持ち前の俊足を活かして盗塁に成功。チームに勢いをもたらすも、この回も追加点には至らなかった。外木場は巨人打線を完璧に抑え込み、6回裏には一死満塁の大ピンチを、王貞治との勝負を避けて末次を併殺に打ち取って切り抜けた。
歓喜の9回
0-1のまま迎えた9回表。金城と大下の連打で作った一死一二塁の好機。打席には3番・ホプキンス。カウント2-3からの一打は、右翼席中段へ飛び込む32号3ランホームラン。瞬間、後楽園球場は大きな歓声に包まれた。衣笠はベンチで両手を挙げて喜びを爆発させた。
4-0で迎えた9回裏、マウンドには金城が立つ。衣笠は三塁の守備位置につきながら、11年間の思いが走馬灯のように駆け巡るのを感じていた。2アウトを取り、ついに最後の打者・柴田を迎える。打球は大きく左翼へ。水谷実雄が両手を広げて捕球した瞬間、時計は午後5時18分を指していた。
歴史的瞬間が鉄人のスタート地点
グラウンドには七色の紙テープが舞い散る中、選手たちが歓喜の輪を作った。衣笠は外木場、金城と抱き合い、若き山本の肩を力強く叩いた。選手たちは古葉竹識監督を胴上げし、続いて山本浩二も宙を舞った。歓喜の渦の中、衣笠の目には涙が光っていた。
この優勝は、カープの歴史における重要な転換点となった。以降、カープは黄金期を迎えることとなる。
木庭スカウトとの運命的な出会いから11年。白石監督との日々、ジョー・ルーツ監督時代を経て、そして古葉監督との約束を果たした瞬間だった。「やり遂げた」。衣笠の胸の内で、その言葉が静かに響いていた。
カープの歴史に、新たな1ページが刻まれた瞬間。それは同時に、衣笠祥雄という一人の選手が、「鉄人」としての新たな歴史を刻み始める瞬間でもあった。
カープの歴史に、衣笠祥雄という名は永遠に刻まれることとなる。彼は単なる名選手ではない。カープの黄金期を作り上げた立役者であり、そして何より、広島という街に野球の夢と希望を与え続けた「鉄人」だったのである。
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