
こんな3月の終わりがあっていいのだろうか
ホームランが見たかった!?
NPB統一球が悪いのか?
両チームの先発投手が素晴らしすぎたのか?
開幕から3試合、すべて1点差。息が詰まるような勝負の連続にカープファンの心臓はもう3歳くらい老けたかもしれない。
この日マツダスタジアムで起こったことは単なる「開幕3連勝」という四文字では到底収まりきらない。
通算134セーブを積み上げた元守護神・栗林良吏がプロ人生で初めて先発のマウンドに立ち9回を投げ切った。
たった95球で。被安打わずか1。いわゆるマダックス達成の完封勝利である。
2026年3月29日、日曜日の午後1時30分。29,697人が見届けたこの2時間9分はカープの歴史に静かに、しかし確実に刻まれる一日となった。
開幕カードの相手は中日。井上一樹監督が率いる竜は、岡林、細川、福永と力のある打者を並べ、先発には球界屈指の若きエース・高橋宏斗を立ててきた。開幕2連敗で後がない中日が、意地を見せにくるのは目に見えていた。
一方のカープは、開幕戦でサヨナラ勝ち、2戦目も1点差で逃げ切るという薄氷の連勝。4年ぶりの開幕3連勝、そして2018年の優勝年以来となる本拠地での3タテがかかる一戦。期待と不安が、春の陽気とともにスタンドを満たしていた。
栗林が紡いだ沈黙の序章 56球パーフェクトの重圧
1回表、栗林の第一球がミットに収まった瞬間、マツダスタジアムがすっと静まった。先発としてのプロ初登板。クローザー時代とはまるで違う、長い長いイニングの始まり。カリステをライトフライ、田中を見逃し三振、岡林をショートフライ。パシッ、パシッと小気味よくアウトを重ねていく姿に、どこかリリーフ時代の面影が重なる。
でも、その表情がどこか違った。新井監督が後に語った言葉がそれを物語っている。
「見ている感じは抑えをやっているときより、生き生きと、楽しそうに投げているなという感じは見ていて感じました」。
そうか栗林はいま投げることを楽しんでいるのか。
2回も細川をライトフライ、福永をショートゴロ、サノーをレフトフライ。3回は石伊、村松、高橋宏を三者凡退。
4回、カリステを空振り三振に取ると、田中はサードライナー、岡林をライトフライ。打者12人をパーフェクトに封じた。この男、かつてリリーフで1球のミスも許されない世界を生き抜いてきた投手なのだ。その集中力が、先発という新しい舞台でもそのまま息づいている。
一方でカープ打線は高橋宏斗の前に沈黙していた。1回裏、平川のセンター前ヒットと中村奨成の犠打で1アウト2塁の好機を作るも、小園、佐々木が倒れる。2回には2アウトから坂倉がツーベースを放つも、勝田は申告敬遠、栗林が空振り三振。投手に打順が回るもどかしさ。
5回まで散発3安打、得点の匂いがしない。じりじりと、焦れったい時間だけが過ぎていく。
5回を終えて56球。栗林はまだ1人の走者も許していなかった。完全試合という言葉が、スタンドのあちこちでささやかれ始めていた。
菊池の執念が呼び込んだ泥臭い決勝点 6回裏の一瞬
6回表、栗林は石伊をショートゴロ、村松をレフトフライ、高橋宏をピッチャーゴロ。淡々と、まるで呼吸をするようにアウトを積み重ねる。18人連続アウト。パーフェクトは続いていた。
そして6回裏。カープの攻撃が始まる。1アウトから小園がレフト前に運んだ。よしと思った次の瞬間、二盗失敗。スタンドに漂う微妙な空気。ここで終わるのかと胸の奥がぎゅっと締まる。
だけど、このチームは開幕から3試合、ずっとこうやって泥の中から1点をもぎ取ってきたチームだった。
2アウトから佐々木がセンター前へ。続くファビアンもレフト前に弾き返し、2アウト1、2塁。打席には6番・菊池。ここで打たなければ、栗林の快投が報われないまま試合が進んでいく。カウントが進み高橋宏斗が投じたのはカットボール。
見送ればボールだったかもしれないその球に菊池はバットをぶつけた。ガツンという手応えではない。ゴロゴロとセカンド方向に転がる打球。ヒットではなかった。
田中が捕球し、1塁へ送球。だがサノーが捕れない。ボールがこぼれる。
その間に2塁走者の佐々木がホームへ駆け込んだ。1-0。スコアボードの数字がひとつだけ灯った。
新井監督はこの場面をこう振り返った。「菊池がカットボールだったと思うんですけど、見送ればボールかなという球を気持ちで食らいついてよく当てたと思います。泥臭くもぎとった1点だったと思います」。ほんとうにそうだと思う。華麗でもなければ豪快でもない。
しかし、あの一振りには「なんとしてでも前に飛ばしてやる」という気持ちが詰まっていたはずだ。記録上は相手の失策。
だが、菊池が食らいついたからこそ生まれた1点であることをマツダスタジアムにいた全員が知っている。
7回表。栗林はカリステの代打・板山を空振り三振、田中をショートゴロ、岡林をピッチャーゴロ。21人目のアウト。パーフェクトピッチングはまだ続いていた。新井監督は「私が緊張しました」と8回を前に胸の内を明かしている。偉業への期待というよりも、あらゆるケースを想定していたからこその緊張だったのだろう。
8回、先頭の細川がセンター前にはじき返した。ここでパーフェクトが途切れる。スタンドからため息がこぼれた。けれど栗林の目は揺れなかった。「自分は初先発。そこへの思いは別になかった」。この言葉どおり、福永をレフトフライ、サノーを空振り三振、石伊をライトフライ。1安打を許しただけで、8回の嵐をスッと乗り越えた。
そして9回。最後のイニング。村松をフォークで空振り三振。代打・阿部をカーブでセンターフライ。そして板山をカットボールで空振り三振。95球。9奪三振。1安打完封。100球未満での完封勝利、いわゆるマダックス。プロ初先発でこの偉業を成し遂げたこの男は、試合後にこう言った。「今日という日を忘れない」。
ふう、と息を吐いた。テレビの前で、あるいはスタンドで、きっとカープファンのだれもが同じように肩の力を抜いたに違いない。3試合連続の1点差勝利。そのたびに心臓が縮み上がり、そのたびに歓喜で膨らむ。こんな開幕シリーズ、ちょっと記憶にない。
栗林良吏という投手のプロ人生は、2021年のルーキーイヤーから守護神として始まった。
ずっと9回のマウンドに上がり続け、134のセーブを積み重ね、1球も甘く入ってはいけないプレッシャーの中でゴールテープを切り続けてきた。
しかし昨季、不振が訪れた。配置転換を経て、新井監督から先発への転向を持ちかけられた時この男は「1年目のつもりで」とうなずいた。
新たにスライダーを習得し変化球を4球種に増やしクイックモーションも一から見直した。
「先発陣では自分が最後方」と語りながら、プロ人生の第2章を準備してきた冬の日々。その全てが、きょうの95球に凝縮されていた。
「すごいとしか言いようがない」と新井監督は言った。「まさかマダックスするとは。興奮しています」。
あの笑顔は、監督としてだけでなく、ひとりの野球人として栗林の覚悟に胸を打たれた表情だったように見える。
セリーグの順位表にはカープの名前がヤクルトと並んで首位に記されている。3勝0敗。2022年以来4年ぶりの開幕3連勝。
まだ3試合が終わっただけだと、冷静な自分がささやく。長いシーズンはこれからだと。だけど、春の風に乗って広がるこの高揚感を、いまは素直に味わいたい。
栗林の95球と、池の泥臭い一振りと坂倉のリードと若い選手たちの懸命な姿と。
カープにはいま確かに何かが始まろうとしている予感がある。
あしたもまた赤いユニフォームを追いかける日々が続いていく。
それがたまらなく幸せを感じる。


